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1_足尾で唐風呂大根を継ぐ久保田公雄さんのお話

取材:2020年12月12日 足尾公民館 学習室にて 参加:久保田公雄さん、足尾地域おこし協力隊 長澤美佳さん    コーディネート:ナチュラルフード森の扉 野原典彦さん    図鑑編集部:飯沼靖博、廣瀬俊介、簑田理香 構成・写真・文:簑田理香

栃木の継承可能作物図鑑編集部3名で、日光市足尾町に久保田公雄さんを訪ねました。私たちと久保田さんを繋いでくださった茂木町の野原典彦さんと、日光市の足尾地域おこし協力隊の長澤美佳さんも同席していただきました。 長澤さんは、2017年に地域おこし協力隊として足尾に着任。足尾地域の在来野菜を守り(継承)、足尾の“魅力”として発信する活動などを、自身も畑を借りて栽培しながら精力的に行っています。野原さんは、自然栽培や有機栽培の青果や自然食品を通販やマルシェで扱う八百屋を運営し、耕作放棄地などを活用して仲間を募り「シェアする農業」の活動を展開しながら、県内各地の在来作物の継承にも注力されています。

そんなメンバーで久保田さんを囲んで、作物のこと、足尾の歴史のこと、地質のことなど、地味な話題ではありますが、広がりと深さをあわせもちながら実に盛り上がりました。


1 はじめに:野原さんと久保田さんの出会い 久保田さんのお話の前に、野原さんと久保田さんの出会いのエピソードを紹介します。

絶滅しかけている唐風呂大根(からふろだいこん)という在来野菜が足尾にある。 2013年のとある会議で一緒になった日光市役所に勤めるTさんからその話を聞き、ずっと気になっていた野原さん。2年後の2015年秋、唯一の栽培者として紹介してもらったおじいさんを足尾に訪ねます。獣害対策の金網に囲まれた畑で、土から掘り出された大根のきれいな赤紫色に感銘を受けつつも「俺も86歳だから、この先あと何年作れるかわからない」と言うお話に「なんとか継承できないものか」と考え始めます。「本当の唐風呂地区は、ここから車で3、4分奥だ」と言うおじいさんに道を教わり、車を走らせました。道を間違えたのか教わった集落へはたどり着けず、それでも幸運に、猟師さんが5、6名集まっているところに出会います。 「こんな道に入ってきて、何してんだ?」 「唐風呂大根を作っている人を探して・・・」 「なんだ、足尾の在来は大根だけじゃないよ。舟石芋、知ってるか?」 「サツマイモですか?」 「違うよ、小粒で細長いじゃがいもだよ」 「メークインですか?」 「違う違う、メークインなんかが出る前から足尾で作ってるんだよ」 そんな猟師さんとの出会いがあり、新たな在来の作物との出会いを嬉しく思いながら「ぜひ今度の栽培時期に見せていただきたい」と野原さんは電話番号を教えてもらいます。 そして唐風呂地区へたどり着き、畑などを探してみますが、どんなところで大根を作っていたものか、なかなか手掛かりがみつかりません。そこで軽トラで作業をしていた方に声をかけ唐風呂大根のことを尋ねると、「私も唐風呂大根、作っていますよ」。それが野原さんと久保田さんの出会いでした。 野原さんは、唐風呂大根を作る人に二人も出会えたことに安堵して帰宅の途に着きましたが、その後も高齢である作り手のお二人のことを「元気に作り続けていらっしゃるか」と気にかけて連絡をとりながら、継承の仕組みづくりを考え始め、2017年にシェアする農業と種子の継承の取り組みとして「たねまきびと@足尾」の活動を立ち上げました。趣旨に賛同して楽しみながら農作業をする参加者たちと、久保田さんの指導を受けながら唐風呂大根の栽培も始めています。 また2017年、野原さんは最後の作り手の一人だったと思われる猟師さんから舟石芋の種芋を託され、久保田さんへも繋いでいます。 2 久保田さんのお話  叔母に託された唐風呂大根の種


唐風呂大根は、親戚から引き継いで作っています。その親戚は、もう何百年も唐風呂地区に住んでいて、ずっと農業やってきました。屋号がインキョっていうんですけど、延享年間(1744年から1748年)からある家じゃないかって言われています。そこで十何年か前に亡くなった叔母に「種を継いでくれ」って言われて、引き受けたんです。叔母は群馬の沢入(そうり)の出身。私の母と瓜二つの人なんですよ。それで子どものように可愛がってもらったんでね。

今⽇、持ってきたんですけど『⽇本の⼤根』という冊⼦のコピーがあるんです。 1954年、55年に三島市国立遺伝学研究所が各地を視察し全国で栽培されている各種大根の特性調査を行った記録です。1958 年版ですね、⽇本学術振興会が出版している。私が知る限り⼀番古い研究の冊⼦。全国にもう数冊しか残っていないそうで、この貴重な資料のコピーを宇都宮⼤学の先⽣からいただいた んです。 唐風呂大根のことも書いてありますよ。短い文ですから、読みましょうか。 「栃木県足尾町の原産。関東地方では珍しい地方品種である。根茎は砲弾状で、先端が尖っている。皮はほとんど赤紫色を帯び、先端のみわずかに白い。葉柄も同じように赤紫色を呈する。中肋(ちゅうろく)の形は扁平、葉片は濃緑色で、練馬大根に似ている。多少抽出性がある。肉質は柔らかく、長期の貯蔵に耐える」 私は、硬いと思っているんですけど(笑)、まあ、比較の問題だと思いますけどね。

私の農業は、このような資料も参考にして試行錯誤しながら、研究しながらやっているから、十分じゃないところも多いと思います。

家庭菜園的なもので、自分で食べればいいと思ってやってきたわけです。だけど、下手の横好きでね、原地区で引き継がれてきた桑の木豆や、舟石というところで銅山の閉山まで作られていた舟石芋も、野原さんが種を探してきてくれまして、自然農法ということで、野原さんの指導を受けてね(笑)、それも引き継いで作っています。

落ち葉を漉き込んだりもしていないです。無肥料にしたのは2017年から。それまでは、鶏糞とか大豆を畑に肥料として撒いていたんだけど、肥料をあげなくなったら、虫もすごく少なくなったし、採れるものの味が澄んできたように感じる。おいしくなりましたよ。

動物も来ますよ。サル。シカ。イノシシ。みんな年中来るから電柵で防いでいます。足尾の中でも下間藤(しもまとう)という地区に住んでいた時は、庭の中までカモシカが来ていましたね。甘い匂いがするからか、自動販売機の前にもよく来ていました。でもお金ないから飲めないよね(笑)。 イノシシは、原発事故までは食べていたけど、もう食べない。クマも来るけど、友達だと思っているよ。一回、クマが来た時は、鶏小屋に入って鶏が大騒ぎしていたけど、鶏を襲うでもなく鶏の餌を食べていたね。役場に連絡をして、警察と猟師を連れてくるっていうから、家の中から鶏小屋の様子を見ながら待っていたら、45分くらいかかってね。それまでに郵便屋さんのバイクが来ると、いったん顔あげるけど、また、食べる。次に、役場と猟師の車が着いた途端、姿も見えないのに逃げていった。匂いで覚えているのかもしれないね。それ以来、ああ、熊は大丈夫だな、と、友達だと思っていますよ。

3 足尾の歴史、家族の歴史

私は、古くから農業をやっていたわけじゃないんですよ。祖先が足尾に住み着いて4代か5代目なんですけど、家は商売をやっていました。父は八百屋だったんですけど、先祖は、松木という地区で獲れた獣肉を町内におろして売ったり、繭(まゆ)の仲買人のようなことをやっていたんです。唐風呂も松木も養蚕をやっていた。松木を拠点にしていて、繭を水沼の星野製糸所におろしていた、そして松木で、農産物とか、狩猟で得た獲物だとか・・。明治時代は、銅山の開発で足尾もどんどん人が増えるもんですから、もともと商人だから、一儲けできると踏んだのか、店を出して、支店なんかも出すようになって、群馬の大間々などからは、味噌とか醤油とか運んできていたようです。明治時代の町の商店街図には、獣肉、酒、塩、味噌の久保田屋という看板が出ています。


ところが、明治20年から23年ごろかな、足尾銅山の煙害で桑の木が全滅したんです。養蚕は廃業。廃村になってしまいます。それから戦争もあって、地元では、繭も農産物も採れなくなったけど、自分の郷里の群馬県笠懸(かさかけ)村から仕入れてきて商売していたのかな。まあ、やがて、銅山の衰退とともに家業も衰退するわけです。八百屋をやっていた父親は、私が19の時に亡くなりまして、それで私は、直系の身内で初めて古河で働く工員になりました。さく岩機をつくる機械工です。40年は勤めたんだけど、10数年は不当解雇反対の労働争議で、外に追い出されましてね。最高裁まで行って、判決は本人の同意無き移籍解雇は無効だ、と。それで職場に帰ってきて、組合の役員をやっていました。その間には、きのこが好きだったものですから、友達と一緒にきのこ栽培もやっていました。一反歩くらいの山を借りてね。でも原発事故でセシウムが来るまでのことです。残念です。


お話したように、私の家は、もともと自然も豊かだった松木村の獣肉や繭を扱っていました。松木は自給自足の農業でやれていたんです。ところが明治時代になって、殖産興業と富国強兵の国策で、渡良瀬川に鉱毒垂れ流しで銅の生産をどんどん拡大してね。足尾の人口がうなぎ上りに増えた時の食料は、群馬から輸入されていましたし、煙害で山も枯れるし農業どころではなくなったんです。国策とどん欲な独占資本のもとで銅の生産拡大だけが優先され、自然は破壊され、農は滅んで行ったわけです。それでも、いくつかの在来野菜が生き残ったのは、奇跡としか言いようがありません。



今日は、松木へも行ってきましたか? ああ、どうでしたか? 植林の木が育ってきていたでしょう。私は、松木のハゲ山で生まれ育ったので、植物の名前も花の名前もよくわからいないんです。女房は東京生まれなんですけど、疎開先で植物に詳しくなって・・・。自然の中で暮らしたいということで、下間藤からこっち(唐風呂地区)に引っ越してきたんです。下間藤は渡瀬渓谷鐵道の終着駅になっているところで、煙害が激しかったところ。あそこから上は、ほとんどハゲ山でした。子どもの頃は、植物で記憶にあるのはスカンポ(イタドリ)くらいなもんですよ。

4 足尾固有の野菜と、継ぐための努力

この冊子(『日本の大根』)も頼りにしながら、種採りをしています。交雑したりすることもあるから、これを見ながら、思い浮かべながら、できるだけ同じようなものを選んで・・・。ただ、体も思うように動かなくなってきたから、この2年ほどは放っちゃって、種採りも十分ではなかったりしたから、少し交雑してきたかなあと。やはり元のものに近づけるには、毎年、毎年、しっかり吟味して種採りをしていかないといけないですね。 アブラナ科だから、大根以外でも近くに咲いているいろんなものと混ざったりするんです。でも、固定化する努力の方が強ければ、その種が増えますよね。毎年採れるものの中で、その特徴をはっきり保ったものを決めて、毎年繰り返して、それの種採りをしていけばね。ただ、交雑したものは出ると思いますよ。 飯沼:そういう意味では遺伝子云々では無いですね。見た目で選んでいくことで・・・。 久保田:うーん。DNAって詳しいわけではありませんが、ぴったりというのは無いと思いますよ。どんな大根だって混ざっているはずだから。ただ、その土地で繰り返しやっていけば、その環境に適応したものにだんだん固定されていく、というのはあると思うんですよ。その遺伝子というのはあると思うんですよ。 飯沼;なんだか、うちらは遺伝子守ればいいのか、何を守ればいいのかと思っちゃったんですよね。種がどうこうというのではなくて、久保田さんの吟味していく姿勢に学んで、そんな姿勢を守っていけば良いのか?とか、思っちゃうし、色々考えちゃいますね。 久保田:私も、そこを稲葉さん*に聞いておけばよかったと思うんですよ。唐風呂大根の遺伝子というのはあると思うんです、色々混ざっているとしても。おそらく、モンサントなんかが種を入手しているとして、唐風呂大根の遺伝子でF1を作る、登録品種にする、そういう場合に、「前からあったんだよ」ということを証明して、作っていたんだよ、これは私たちの種子だよ、自家採種したっていいやないか、と、言える。そういうことじゃないのかな。遺伝子解析して証明してもらうといいと思うけど、それで残せるのかどうか・・・。 (*稲葉さん:稲葉光國氏 NPO法人民間稲作研究所理事長、一般社団法人種子の会とちぎ  共同代表、2020 年12月にご逝去) 残すために、種子はあちこちの人に持っていってもらっているけど、ここの土地でないと皮が赤くならないという特徴があるから難しいです。唐風呂で、私の後をついで作ってくれる人がいないとなくなってしまう。長澤さんに頑張ってもらわないと(笑)。 簑田:唐風呂地区で作らないと、皮が赤くならないと聞いたんですが、唐風呂地区であれば、赤い色の濃さは、毎年安定しているんですか? 長澤:唐風呂地区で作っていても、皮の赤紫色は、その年によってどうなるかわからないですね。1本だけ真っ白のものができたこともありました。 唐風呂地区周辺で栽培をすると赤紫色が継続しますが、他の土地で栽培すると赤紫色が薄くなってしまうと言われています。野原さんも前におっしゃっていましたけど、土の微生物の問題も関係しているのかなと、私も思います。


野原:足尾銅山の鉱物が関係あるかとも思いますが、銅山があったあたりで育てても色が消えちゃうらしいので、やっぱり唐風呂地区の土壌微生物が作用しているんじゃないかと思うんですよね。


久保田:そうだとしたら面白いね。唐風呂の土は、足尾のハゲ山と地質も違うし、自然も豊かだから。銅山自体は銅を含んだ珪岩だから、周りと地質が違うんだよね。


廣瀬: 日光の方が火山性の山地になっていて、ここから南へ行くと海の底でできた堆積岩から山地ができていますが、その間に確かに花崗岩がありますね。地下深くから上がってきたマグマが地上には出ずに冷えて固まったものが花崗岩で、珪岩は海底でできた堆積岩のチャートなどが熱変成作用を受けてできたものです。これらの岩石の分布と関係も、興味深く思われます。確認をしてみます。


野原:在来種のカブにも、他の地域で育てると赤みが消えるというものがあるんですよ。山形県の温海蕪(あつみかぶ)。福島県の舘岩の赤蕪というのがあって、そこも地盤が唐風呂と同じという可能性もありますかね。赤い大根で、他の地域でつくると色が薄くなるのは、唐風呂大根だけだと思います。佐賀県の女山大根(おんなやま)も赤いけど、どうなんでしょうか。


久保田:女山大根は、馬に3本か4本積んでお殿様に献上したというくらい、でっかいらしいですよ。私も気になるから、知っていることは知っているけど、他の地域で育てるとどうなるかはわかんないね。昭和30年ごろに平凡社から出た百科事典にも載っていたね。


野原:女山大根は、ネットで見ると、茎が赤いものと白いものと2系統出てきているみたいですね。唐風呂も、もともと白い大根が持ち込まれて、その土地で育てるうちになんらかの理由で皮が赤くなったのか、もともと皮が赤い大根が持ち込まれたのか、その辺はわからないですよね。


久保田:うん。わからないよね。本当のところはどうなのか。


野原:形は三浦大根に似ていますしね。これは、全くの推測なんですけど、久保田さんが前に、足尾には鎌倉武士が出城を作っていた歴史があるとおっしゃっていましたね。鎌倉武士が三浦大根を持ち込んで、ここの土地では赤くなったということもあるかもしれません。


久保田:中国から大根が日本に伝わってきたのは弥生時代という説があるから、日本では、長い時間かけて、北から南まで、日本の中のいろんな土地に合うように変化して、いろんな大根に別れていったんだろうね。日本の市場の90%は青首大根が占めている中でも、各地で残しておきたい在来の大根ということで、それぞれが守っているわけだね。


長澤:そうですよね。足尾、日光には、唐風呂大根や舟石芋の他にも、コツコツ作り続けられてきた在来野菜があるんですけど、栽培者が高齢であったり、継ぐ人もいない状況です。栽培者の方達にとっては大変なこともあると思いますが、どれも本当に絶やしたくない日光の貴重な野菜ですよね。「みんなが喜んでくれるなら、また作ろう」とか、「野菜を通して町の自慢ができることがとても嬉しい」とか、いろんなモチベーションで、野菜を守り続け、頑張っていらっしゃるんです。

実は、活動の中で知り合った大学の先生から、農業高校の一年次で必修となっている科目の教科書に唐風呂大根のことを載せたいというお話もあり、足尾は、なかなか野菜のイメージはないと思いますが、足尾の新たな一面も知っていただけたら嬉しいです。

久保田:長澤さんが足尾に来てくれて、本当にどんどん面白くなってきて、頼もしいね。

---------------------------------------------------------------------------------------------------- ここで、足尾の唐風呂大根以外の地域継承作物について、久保田さんと長澤さんに教えていただきました。 紫ジャガイモ。 足尾の原地区で作られている紫色で小ぶりのジャガイモです。形は舟石芋に似ている。栗みたいな味。作っている人が子供だった頃の記憶では、みんなこの芋のことを「からふろ」って呼んでいたらしくて、だから唐風呂地区でも作られていたかもしれません。その人は作り続けてはいたけれど、自分が好きなじゃがいもではないそうで、おいしいといってくれる知人のおばさんのために栽培していたそうです。それで絶えることなく今に残っているんです。


舟石芋

ねっとりとホクホクの触感を持ち合わせており、さっぱりとした甘みと旨味が凝縮されていて、舟石芋を食べた地域の方は、皆さん口を揃えて「おいしい!」と言います。じゃがいもの場合、普通だったら畑に捨ててしまうような小芋は苦みやえぐみがありますが、この舟石芋は味がしっかりしていておいしく食べることができます。あえて小芋を選び、煮ころがしにして食べるのが足尾の定番でした。



桑の木豆 青いうちに鞘ごと食べるととてもおいしい。煮豆で食べてもおいしい。(久保田さんは)原地区の知り合いのおばあさんから種をもらって作っています。昔はどこでもたくさん作っていたよ、養蚕をやっていた頃、桑の木に這わせていました。 ---------------------------------------------------------------------------------------------------- 久保田:舟石地区は、芋以外にも、鉱山労働者向けにいろんな野菜を作っていたんですよ。一番高い所で1000メートルもある峠の高地だから、こんなところで作物を作っていたのか?と驚くと思います。昔は、肥溜(こえだめ)を担いで上がっていた。友達は、朝から山盛りのご飯を食べて、アルマイトのでかい弁当箱に、蓋が持ち上がるくらい飯を入れてから「舟石の畑に行ってくる」と行っていましたね。

野原:うちでは桑の木豆を柿の木に巻いて育てたら、たくさん実りましたよ。岐阜県が発祥の作物で、岐阜の神岡鉱山の坑夫が足尾に持ってきたのではないでしょうか。それから、舟石芋の形に似ているものも長野県にもあります。足尾銅山には、いろんな鉱山を渡り歩く、いわゆる渡坑夫と呼ばれる人たちがいろんな地域から来ていたので、在来種のプラットフォームになっていたかもしれませんね。 久保田:ピークの時には、県内では、宇都宮の次に人口も多かったしね。大正5年6年の最盛期の頃は人口3万8千人くらいだったから。宇都宮は7万です。 野原:欧米化も、足尾の方が早かったし。景気がいい時は、年がら年中宴会もやっていただろうし、宴会料理むきの赤い大根は、盛んに作られたのかなと想像しますね。 長澤:足尾で採れる野菜の中でも芋類がおいしく、インゲンやミョウガも味がいいと言われています。それから、足尾は植物も上質だという人が多くいます。都内の染織をする人が、足尾の植物を染料に使うと、布が鮮やかによく染まると言っていたそうです。ヤシャブシなんかは、他の地域のものよりも良く染まり、色も違うと言っていたそうです。それから、足尾は水が綺麗でおいしい。ミネラルが多く含まれているとのことです。

野原:何かあるんですかね、やはり土壌に秘密が。水もいいですよね。夏に足尾で畑仕事をして川で水浴びすると、肌もすべすべですよ! 飯沼:水浴びにこないといけないですね(笑)。足尾は奥が深すぎて、まだ入口に立っただけかも。時間が足りないですね。また来ます!!ありがとうございました。


5 おわりに:長澤さんと久保田さんの出会い


久保田さんは、収奪の足尾の歴史の中で、在来作物がわずかだとしても生き残ってきたことは「奇跡としか言いようがない」と語ってくださいました。

足尾に地域おこし協力隊として着任した長澤さんも、「奇跡としか言いようがない」と、野原さんと久保田さんとの出会いを語ってくれました。


2017年に日光市の足尾地域おこし協力隊として着任した長澤さんのミッションは、農業分野に限定されたものではなく「足尾地域の活性化、魅力発信」というものでした。足尾の魅力を探る中で、久保田さんとの出会いがあり「絶滅寸前の唐風呂大根をどうにかできないものか」と相談を受け、久保田さんの思いに心を動かされ、「農業と言えば、幼稚園での芋掘り体験しかなかった」と言う長澤さんが、足尾で継がれてきた作物を自らも栽培し、「在来作物の継承と魅力発信」をテーマに活動することを決めたそうです。 「この足尾の在来野菜によって、引き付けられるように、  久保田さんと野原さんとつながり、一緒に野菜を守る活動ができることは、  本当に奇跡だと思っています。

 まだまだ勉強の身ですが、久保田さん、野原さんにご指導いただき、  この足尾の貴重な在来野菜の唐風呂大根と舟石芋を守っていけたらと思います」

土地と作物が出会い、作物と人が出会い、人と人が出会い、継がれていく生命のみなもと。

私たち消費者も、それぞれの地域でつくられている作物に真摯に向き合い、未来に継いでいく使命があると、思いを新たにすることができた足尾訪問でした。(簑田)


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